青栁幸秀 aoyagi yukihide
●著者略歴
昭和8年10月21日 長野県南安曇野郡烏川村に 生まれる（現安曇野市）
昭和20年4月 長野県南安曇野農学校入学（のち 長野県南安曇野農業高等学校となる）
昭和27年3月 長野県南安曇野農業高等学校卒業 以後農業一途に従事
昭和35年 歌誌「露草」に入会
平成18年 長野県歌人連盟幹事
平成20年 長野県短歌大会に於いて県芸術文化協 会賞受賞
平成21年 短歌文芸誌「ぱにあ」入会、同人
平成24年 松本市芸術文化祭市民文芸展短歌選者
平成25年 第一歌集『安曇野に生きて』刊行
平成28年 「ぱにあ」編集委員になる
●『安曇野慕情』あとがきより
玄関から少し歩いて木戸先ヘ出てみると、残雪の常念岳が美しい。弥生三月も過ぎ、すでに四月だと言うのに朝日の中に輝いている。
常念岳は、安曇野にとっては欠かすことの出来ないシンボルである。
ものにこだわらない私は、ためらわず歌集の名を「安曇野慕情」とした。前の「安曇野に生きて」に続く二冊目となる。
貧しくもこの地に長らえてはるか、土に還ってゆかざるを得なかった祖たちと、私を育んで下さった大地への精一杯のはなむけの意をこめたつもりなのだが、さてそこは。
私は短歌を始めてどの位になるのか、気付いてみるとペンを握っていた。昭和三十年代初頭のことである。しかし詩を書くなどと言った、大それたものではとてもなかった。
やがて、長野県近辺の地方誌「露草」に載せることとなる。主宰は、自由奔放に生き、武者小路実篤とも親交のあり、豪農の誉れの高かった降旗吉衛であった。
地方誌と言っても、吉衛は太田水穂の主宰する「潮音」で名声を、確かなものとしていたとも聞いている。草原に荷車ひとつ捨ててあり雲雀の声のおちにけるかな
道普請庭に投げある玄能に蝶ひとつゐて陽のさしにけりこの吉衛の世界は時代を経ても色褪せるなどとても考えられない。
吉衛亡きあとを継いだのが、丸山敏文であった。氏は伊那谷で教職に在ったものの、若くして胸を病み、職を去ることとなったのだが村に帰って、旧堀金村の教育長につくなど、人望をほしいままにしていた。
そこで知己を得たのが、筆を持たせれば、誰一人、右に出る者のいなかった俊才太田陽啓である。以下前回も同じ事を書いたのだが、また書かねば私の心が許さない。
前と今度の二冊の本は、全てこの氏とのかかわりの中から生れたと言っても過言でない。太田氏との縁により、伊那谷の歌人久保田幸枝との接点が出来、久保田氏の推挙により、東京の短歌文芸誌「ぱにあ」の秋元千惠子氏の懐に辿り着くことが出来たのだから。
氏はすでに中央にあって、名声の高かった上田三四二に心酔するかたわら、東京にあって超結社の歌人の集い「現代短歌を評論する会」のカリスマ的存在ともされていた玉城徹の門もたたいており、私にとってはとてもまぶしい歌人であった。
尚、さきの露草誌も、今の主宰小林正昭氏により、着実に足跡を印していることは誠にうれしいかぎりである。なぜ私が短歌の片鱗にふれることになったのか、流れゆく雲に心をよせることが出来たのか、考えても自分でも分らない。
もしかしたらしらぬ間に三十一文字に酔ってしまっていたのかもしれない。
強いて言えば、母親がいつも私に乳をふくませながら、小倉百人一首を口ずさんでいた。しかしなぜ小倉百人一首なのか、藤原定家なのかと言ってもとてもしる由もない。
でも松本市の実家、浅輪家の血縁には教職に身を投げ出す人が多く目立つ。
そんな血が私のなにかを動かしてくれたのかもしれない。もち論、豊かな安曇野の大地と、ひたすら根をはって生きてきた、先祖の血すじのあったことは言うまでもないのだが。安曇野と聞けば誰しもが思うのは、雪を戴く厳しい北アルプスと、自然豊かな大地。どこまでもつつましく、いつも誰にでも優しく微笑みかけてくれる石仏。ここの風土は長らく、しる人にこそしられ、愛されてきた。とりわけ、近代アルプニズムの黎明により、多くの人のしるところとなった。
幾世代農に生きたる証とし馬頭観音在しますここに
これは私の貧しい短歌であるが、ここの地は長野県内でも希にみる豊かな所であり、いつでもよそ者の旅人さえ温かく迎えてくれる。
はるかな昔。この山深い地をめざして来たのは、遠く九州の地から、荒海の日本海に沿って辿り着いた〈海の神々〉達であったとのこと。今でも安曇野の中心の地に穂高神社がひっそりと祀られており、秋の例祭には、船をかたどった山車が奉納されている。
醍醐天皇の延長五年（九二七年）に撰進された『延喜式』にも記録されている。とにかく、古い神社である。
私は数字にうといので、詳しくはしらないが、私達が今ここに在るのは、多くの幸をはぐくんで下さったご先祖様があってのこと。この本をみるにつけ、安曇野の風の騒いでいるのはうれしいことである。
この歌集はこれら多くのみ祖たちと縁ゆかしき方々併せて国のために尊い命を落してしまったみ霊に真心をもって捧げたい。