泉遥 izumi haruka
●著者略歴
1938年(昭和13年) 長野県会地村生まれ。
1959年 長野県保育専門学院卒業
1959年から1997年まで保育士として勤務
●『風の音』「あとがき」より
保育園の仕事・家事・子育て・あまり丈夫でない自分の体を思い岐路に立ったとき、「これからは女も自分の仕事を持って、一人でも生きてゆけるようにしていかないとだめだよ、応援するからね。」と明治生れの御嬢様育ちだった母に言われ、背筋を正す思いで納得しました。
保育の専門学校へ行かせてもらっていました。就職のことを考えるようになった頃、下伊那郡売木村の松村伊八村長が、村の幼児教育をすすめたいから、卒業したらぜひ来てもらいたいと、学院へ来て下さったそうです。私は全く知りませんでしたが、「山の奥の方らしいけれど、行ってあげなさいよ、二度もここまで来て下さったんですよ。」と根岸草笛学院長に勧められその気になりました。それから退職するまでの三十八年間に頂いた辞令には十一人の長のお名前がありました。
それ以降、定年退職するまで、大変大勢の方がたにお世話になってきました。
ありがとうございました。感謝しています。
たくさんの保育園があり、転勤で計十二園で勤務しましたが、それぞれの出合いがありそれぞれの思い出でいっぱいです。
無我夢中で生きてきた気がするけれど、私ってどんなふうに歩いて来たのでしょう。
八十歳をすぎたので、人生の締め括りとして自分の来た道を振り返ってみることにしました。
幸い高校で短歌を学んだ頃から、自分流で歌らしきものをつくっていましたので、それを元にして思い出しつつ歌集としてまとめました。
二十歳の頃、藤瀬あきら氏のお世話により斎藤史の「原型」短歌会へ入れていただきました。歌会には参加できないので専ら通信添削で、史先生は元より大勢の先生方に添削していただきました。
「原型」は六百十二号で終刊になりました。さて私はどうしたものかと思っていましたところ、久保田幸枝先生の「おがたま」に誘っていただき、その後、秋元千惠子先生の「ぱにあ」に入りました。現在は「ぱにあ水曜短歌会」で久保田先生にお世話になっています。
●『風の唄』「あとがき」より
先の出版物『風の音』ができてからもう四年が過ぎてしまいました。 その間私は入退院をくり返し、もう一度心臓病と戦っていました。それは高齢となり体力がなくなってきたからだそうです。 介護した夫にも装画を描いてくれた弟にも出来上がりを見てもらえず無念で、今も本を見るたびに涙がにじみます。今度こそもたもたしないでやりましょう、見てもらいたい人がいるのだからと思いました。 四年間、書きちらしてきたものをまとめることにしました。とりとめもないのですが、人生のしめくくりと思っています。 驚いたことに、八十六歳となり自分でもびっくりしています。こんなに長く生きられたこと、短歌と会えたことに感謝しています。今回しめくくりの歌集をつくりたいと言ったら、秋元先生が「その気持がえらいよ。」と言って下さり安心しました。久保田先生にも長い間おせわになりました。今回は特に井原法子さんに点検をしていただき、清水弥生さんには、史郎さんの大切な遺品を提供していただきました。洪水企画の池田様はじめみなさまにお礼を申し上げます。 ありがとうございました。
泉遥 令和六年六月吉日