南原充士 nambara jushi


 

●著者略歴

1949(昭和24)年2月7日生、茨城県日立市出身
1972(昭和47)3月 東京大学法学部卒
日本詩人クラブ会員

◇既刊詩集16冊:
『散歩道』『レクイエム』『エスの海』(以上、私家版)
『個体から類へ涙液をにじませるfocusのずらし方・ほか』(近代文芸社)
『笑顔の法則』(思潮社) 
『花開くGENE』『タイムマシン幻想』『インサイド・アウト』『ゴシップ・フェンス』『にげかすもきど』『永遠の散歩者 A Permanent Stroller』(以上、洪水企画)
『思い出せない日の翌日』(水仁舎)
『時間論』『滅相』(以上、Kindle 版)
『レジリエンス』(思潮社)
『遡及2022』(Kindle版)

◇既刊小説8冊:
『エメラルドの海』『恋は影法師』『メコンの虹』『白い幻想』『血のカルナヴァル』『カンダハルの星』『喜望峰』(以上、Kindle版)
『転生』(BCCKS)

 

●ブログ

http://blogs.yahoo.co.jp/nambara27
http://nambara14.exblog.jp/

 

●『花開くGENE』あとがきより

 この詩集「花開くGENE」のテーマは、「祈り」である。人間は謎につつまれたまま運命に翻弄されて生きていく。精一杯自分に与えられた生命を生かそうと努力しても、結局は、人間に残されているのは「祈ること」だけだろう。「祈りの変奏曲」といったものを詩で表現したいと思った次第である。

 この詩集は、三部構成とした。

 Tは、ソネット形式を基調とした抒情的な作品を収めた。

 Uは、祈祷、呪文、おまじない、言葉遊びといった、いわば言葉が祈りに変化してゆくプロセスをさぐってみた作品を収めた。

 Vは、比較的哲学的な視点を基に、自分なりの叙事詩をまとめてみたものである。

 こうした三つの形式は、形式そのもののためにあるのではなく、表現したい感性(ポエジー)によってさぐられ、生み出されるものだと思う。最近のわたしは、この三つの形式によって、自分のポエジーがたしかに表現できると感じている。

 

『花開くGENE』書評(草場書房HP)

 

●『タイムマシン幻想』あとがきより

 詩集「タイムマシン幻想」は、ふとしたことで医学に興味を抱いたことから生まれた。心身を襲う疾病やケガを体験して、人間の体というものについてあまりにも無知な自分に気づいたとき、たまたま手にした書物にヒポクラテスの肖像を見つけて、詩の想像力がゆさぶられた。日本において、身近なはずの人間の体の解剖がはじめてなされたのは、江戸時代の末期であったことなども今更ながら驚きであった。人間の体について次第に理解が深まっていくと、想像の翼はやがて、医学から美術、文学、音楽へと飛翔し、時間の旅へと誘った。それはまるで、タイムマシンに乗って、現在・過去・未来を行き来し、偉大な先人に触れるかのような幸福感を味わわせてくれた。
 この詩集は、以上のような意味において、知識を前提としているが、詩作に当たっては、自分の経験をベースにして想像力によって知識と経験の融合に努めた。あくまでも文学的な作品としてまとめることが作者の狙いであったからである。また、多くの詩篇はいわゆる「ショートショート」風の雰囲気をかもし出していることを自覚している。それは作者にとってはきわめて自然なスタイルであったからである。医学というシリアスなテーマを通じて、過去の偉大な医師すなわち、ヒポクラテス、野口英世、杉田玄白、前野良沢、ジェンナーなどに思いを致し、さらには、紫式部やモーツァルトなどにも出会うという楽しみを見出せたのだった。その不可思議さの中で感じたタイムマシンの旅の愉悦が読者にも届けられたらこれに過ぎる喜びはない。

 

●『インサイド・アウト』あとがきより

 夏目漱石の「文学論」を読むと、漱石がロンドン留学中にいかに多くの英詩を読み、文学とはなにかということについて徹底的に考察したことがうかがえる。その中で、文学においては感情に訴えることが最も重要であるという趣旨の指摘がなされている。時代が変われば、社会も変わり、言葉も、感覚も変わるが、文学がすぐれて感情に訴えることを要諦とするのだという本質には変わりがないように思える。
 わたしは、これまでさまざまな表現スタイルを試みてきたが、この詩集「インサイド・アウト」においては、とりわけ日常生活におけるごく普通の人間の感情や思いや置かれた状況を出来るだけ率直に表現すること、すなわち「等身大の抒情詩」とも言えるタイプの詩を書くことを目指してみた。
 現代社会は、変化も速く、世界のグローバル化も進み、国家や企業間の競争も激化し、世界各地において血なまぐさい紛争も発生している。苛酷な状況の中で生きるひとびとの多くは多様なストレスに悩まされる日々を送らざるを得なくなっている。傷つきやすい心情が求める救いや慰めの手立てとして詩がどれだけ有効かどうかはわからないが、わたしにとっては詩が生きることについてなにかを感じさせるよすがとなっていることは事実である。もしこの詩集が読者にとってもいくばくかこころを慰めるものになりえたら幸いである。

 

●『ゴシップ・フェンス』あとがきより

 言葉は人間の特別の能力として知力を飛躍的に発達させ、人類がその驚くべき文明・文化を生み出すのに不可欠の役割を果たしてきた。言葉は伝達のために有用だが、言葉はまたそれ自体として芸術的な存在になりうる。つまり、言葉は手段にも、目的にもなりうるということである。脳科学の発達は、言語機能がきわめて柔軟性を有し、まったく異質の意味やイメージを有する言葉の組み合わせを新たな表現として受容してしまうことを明らかにしつつある。そうした芸術的な言語表現の典型が詩であると言えよう。
 この詩集「ゴシップ・フェンス」は、他者に向かって語りかけるところから出発したが、次第に言語は自他の垣根を越えて自立した芸術表現へと変容していった。ある種観念性の強い硬質な言語の連なりと不穏なイメージの多出は、言語の持っている芸術性を突き詰めた表現として表れている。書き手としては、語れば語るほど他者から遠ざかり遂には糸の切れた風船のように言語が書き手の手を離れていくような感覚に襲われた。
 以上のような意味において、この詩集は著者にとっても特別な産物であると感じられ、初めてこの詩集を紐解く読者にとってはとっつきにくく映ることも予想している。しかし、言語の芸術性に関心のある読者であれば、間もなく言語が導いてくれる「絶対芸術空間」へのワープを楽しんでもらえるものと信じている。

 

●『にげかすもきど』あとがきより

笑いやユーモアには人間の心の緊張を解きほぐして現実を対象化しうる精神の自由を与える働きがあると思う。

落語や漫才やジョークや漫画やコミックなどは、それぞれのやり方で人々に厳しい現実を忘れさせ、エンターテインメントの世界に連れて行ってくれる。

川柳や狂歌、滑稽本など、日本文化にも風刺や滑稽さを大事にする伝統が受け継がれていると思う。

詩についていえば、マザーグースの翻訳者でもある谷川俊太郎さんは、だれもが認める言葉遊びの達人である。

古今東西、言葉による遊びを楽しむのは各国共通に見られる人間性の現れと言ってよいだろう。

今回、自分なりに折に触れて書いてきた言葉遊びの詩を集めて詩集としてまとめてみたいと思ったのも、そうした先達のすぐれたお手本があったからである。

もちろんわたしの拙い作品が人口に膾炙した多くの名作に匹敵すると思うほどうぬぼれているわけではないが、もしお読みくださった方々が少しでもそれらを楽しんでいただけたら、これに勝る喜びはないと思う。

●『シェークスピア ソネット集』あとがきより

 シェークスピアのソネットは10年ほど前にたまたま目にしてなんとなく記憶に残ったものの、さほど惹かれたわけではなかった。しかし、シェークスピアの芝居の脚本のすばらしさを考えるとその表現術の秘密がソネットにも隠されているかもしれないと思い直して、たわむれに1,2のソネットを訳してみると非常に難しいことに驚いた。立原道造のソネットとは対極にあるような理屈っぽさや美男子への愛、黒髪・色黒の女性への愛などテーマの異色性にも戸惑いながらもぽつりぽつり訳し続けるうちに、シェークスピアの複雑なレトリックにも次第に惹かれるようになり、どうせなら154篇すべてを訳出してみたいという欲求にとらわれた。
 シェークスピアのソネットにはすでにさまざまな訳や解説書も出版されているので、それらを参考にしながら自分なりの訳文を仕上げていったのだが、英語が古いことやソネットという表現形式の制約もあり、なかなか納得できるところまで到達できなかった。しかし、このままではいつまでも完成しそうもない。自分がとことん考えてここが限界だというところまで行ったところで、終止符を打とうと考え直して、5回10回と推敲を加えてようやく自分ではこれ以上できないというところに行きついた。