野樹かずみ nogi kazumi


 

●著者略歴

1963年愛媛県宇和島市に生まれる。広島大学文学部卒業。在学中、在日韓国人被爆者の被爆体験の聞き書きに携わる。1991年、第34回短歌研究新人賞受賞。この年から東京に住む。1994年、フィリピンのゴミ山を訪れる。翌年からゴミ山の麓にあるフリースクールの運営を支える活動をはじめる。2001年から広島在住。2009年「未来」年間賞受賞。歌集『路程記』。河津聖恵との共著に『christmas mountain わたしたちの路地』(澪標、2009年)、『天秤 わたしたちの空』(洪水企画、2009年)がある。

 

●ブログ/HP

http://yumenononi.blog.eonet.jp/default/(新ブログ)
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●『天秤 わたしたちの空』あとがき

傍らにいてくれたヴェイユ

 「不幸」という文字が目に飛び込んできた。通っていた大学の隣にあった古本屋の埃くさい片隅で、私はシモーヌ・ヴェイユと出会った。『シモーヌ・ヴェイユの不幸論』という入門書だったが「不幸」という言葉とともにヴェイユの名前はくっきりと心に刻まれた。  次の出会いは大学卒業後、もぐりで聴講した仏文の集中講義で、ヴェイユの『「イーリアス」力の詩篇』を読んだときだ。人間が「力」によってどのように魂を変形させられるか、その透徹した現実認識に戦慄した。「暴力はおのれの手の触れる人々を押し潰す。ついにはそれを忍ぶ者同様それを扱うものにとっても自分の外部に現われるに至る」「勝者も敗者も同一の悲惨のなかで兄弟だ」という言葉は、いまもなんと鮮烈に響くことだろう。  世の中は未知であり混乱であり、私はその頃どうやって生きればいいか途方にくれていたが、ヴェイユは混沌の世界に降りてきた蜘蛛の糸、世界を理解する手がかりだった。三か月の失業手当で八か月暮らした日々がとても幸せだったのは、全五巻の『シモーヌ・ヴェーユ著作集』を読みふけっていたから。歴史観、文学観、ヴェイユから学んだことは数知れないが、何よりも彼女の言葉は、魂を内側から温め励ましてくれた。彼女が女工たちのために翻案した「アンティゴネー」「エレクトラー」に私もまた慰められたのだ。  ヴェイユは「不幸」とのつきあい方を(不幸を怖れなくていいということを)教えてくれた。──不幸をあるがままに、ただ存在するという理由において、人類の普遍的な悲惨の現れとして愛すること、この超越的な愛こそが信仰である。十字架は「天秤」(=正義)の形象でもあるが、それは悲惨な者の方に魂を傾けることによって正義なのだ──のちに『カイエ』を読んだときの印象だが、これは私のヴェイユ理解の基本である。「純粋な同苦・共苦によって、いよいよ純粋なよろこびを享受できる」「他人の不幸を、自分もそれに苦しみながら受け入れること」(『カイエ』) ヴェイユの思想の中心にあるのは宗教的な情熱だ。その宗教哲学において重要なのが「脱創造」の観念──この宇宙は「善」であり、実在する「善」をあらわすためにそれを妨げている自我を脱ぎ捨てる──だが、これは仏教の「無作」という言葉とも響きあうのではないか。ヴェイユが「権威の宗教」を否定し「経験の宗教」を求めたことを考えるなかで、十字架はおのずから十字路のイメージに変容した。広く深い普遍性の場としての宗教的なるもの。ヴェイユには、純粋ゆえに孤独な哲学者というイメージがあるが、その魂は他者とともに深い歓びのなかを歩いていただろう。  ヴェイユ生誕百年のこの春、ヴェイユを傍らに河津さんと再びのコラボを試みた。昔、古本屋の片隅で見つけた「不幸」が、こんなに素敵な体験に結びついたことが、とても不思議でとてもうれしい。ここまで私を運んでくれたひとつひとつの出会いに感謝します。

 

●『もうひとりのわたしがどこかとおくにいていまこの月をみているとおもう』あとがきより

いまもそのページに、栞が垂れていて、すぐに見つけることができた。
エミリ・ブロンテの詩の四行。

   何がそのとき目覚めさせたのか 幼な子は
   父親の住まいの戸口から さまよい出て
   あやしい月光の 照らすとき
   人影もない荒野に ただひとり身を横たえた
             『エミリ・ブロンテ全詩集』(中岡洋 訳 国文社)

この詩を読んだのはいつだったろう。たちまち子どものころの夜のなかに連れてゆかれた。家族の寝静まった真夜中、そっと家を抜け出して、そんな時間には人も車も通らない表の道に立って、ときどきすわったり寝ころんだりして、空など見上げた。向かいの田んぼの蛙の鳴き声、虫の声。冷えた草の匂い。裏山の木々のざわめき。星と、月。

そういうとき、どこかにもうひとりの私がいると思った。もうひとりの私がいて、いま私が見ている月を、同じように見ている。もうひとりの私は、だれだろう。いつか会えるだろうか。そしてどこか遠くで、もうひとりの私も、いまそんなふうに思っていないだろうか。

それから歳月がずいぶん過ぎて、たくさんの出会いがあり、別れがあった。あるとき、夜行バスの窓から満月が見えて、ずっと見ていた。いつか人生の全部の記憶は夢になり、この月を見ていたことだけが人生の記憶の全部になるかもしれない。思い出すあの満月は、思い出す度に大きくなる。

(後略)