竹原恭子 takehara kyoko


 

●著者略歴

沖縄県石垣島生まれ

 

●『あの星』あとがきより

私の旋律

 ごく幼い頃から、家庭生活の中には歌がありました。
 朝、「とくとくとくと言われぬうちに とく とく 起きよ はね起きよ」と歌いながら父は起こしに来るのです。広い大きなとり小屋があって鶏を何匹も飼っていました。「コケッコッコ コケッコッコ にわとりおいて みんなでおいで…」と母は歌ってエサを撒きます。近所に大工のおじさんが居て、耳にエンピツをはさみ、口笛を吹きながらカンナをかけます。口笛に合わせるようにカンナから、とても薄い板の紙がおどり出ます。私は傍の木切れにチョンと坐ってそれを飽かずにながめ聞きながら「おじさん面白い、それ何の歌?」「ハハ、何でもないさ」……そうか、歌ってのは出まかせに出てくるものなのか。
 小学校低学年の頃、沖縄の戦後、なかなか給料が出ないので学校教員をやめた父母は農業に転じ、田や畑に私を連れ出します(わが家には他人に任せていた田畑がありました)。夕刻、父と手をつないでカーレー山(川原山)をぬけ、山すその遠くに広がる街、その向こうの海や島々を眺めながら父が歌います。民謡、童謡、学校唱歌…。「しずむ しずむ お陽さましずむ 西の海にしずむ…」どうってこともない言葉なのに、旋律と一緒になると何と大きな世界が広がるのだろうと詞と曲の合わさった世界に心が躍ります。夜分、母と手をつないで歌いながら隣村の母の里へ出向きます。母は女子師範学校時代、音楽が得意で専門のようにしていたそうです…。
 その年齢の頃の子どもの思い出は、自身の成長につながるような、どこかのびやかさがあるものですが、当時、大人たちにとっては大変な時期であった筈です。毎日の食を用意することだけでなく、社会を建て直す、人の心も産業も再建し、子ども達に希望を与える大きな任務も抱えていたわけですから。そして、戦後僅か5年という時に、早くも復興博覧会というのが催されました。小学2年の時でした。竹富のように近い島だけでなく、波照間・与那国など遠い離島の人達まで船でやってきて、何日間も続いた色々な出し物を楽しみました。
 その2年後、住民達に新しい娯楽を、と「三つの歌大会」というのが開かれました。第一回目はペアではなく単独出場です。島内各学校の小学(高学年生)・中学・高校生が学校代表や学年・学級代表として、にわか造りのステージに立ちました。
 “鳩ぽっぽ”のように誰でも知っている歌、“菜の花ばたけに…”のように学校の生徒ならたいていは知っている筈の歌、大人達が昔なじんだような古い懐かしい歌、という組合せを書いた一枚を自分の出番のその場でクジを引き、オルガンの先導で歌います。三つとも一番のみ歌いますが、歌詞も曲も間違えずに最後まで歌えなければ合格できません。
 私は当日のその時刻前の夕方1時間近くを、自宅の縁側に腰を下ろして父から昔の歌をたくさん教えてもらいました。歌詞をまちがえずに歌えるよう願い出たのです。例えば“箱根の山は天下の険”“霞か雲かはた雪か…”“磯の火ほそりて更くる夜半に…”などです。言葉の意味のよくわからない歌ももちろんありましたがキチンと耳の中におさめました。どの歌も二つまで歌える人は多いのですが、三つ目は曲やら歌詞やら怪しくなるのです。私の場合、つい先、父と一緒にうたった歌のひとつにめぐり合い、三つともうたいおおせることができました。他には中学生のお姉さんと高校生のお兄さんがひとりずつ、参加賞に加えて特別のごほうびをいただきました。野外の広い芝の会場に、坐ったり立ったり、大勢の人が詰めかけ“これは知ってる、これはどうかな…?”と自分も出場しているように楽しんでいました。
 小学校高学年になると、高校合唱部の姉が練習中の歌を歌うのです。“おお、ひばり…”“流浪の民”など、高校生向きと思える歌をいくつも覚えました。その時、郷里八重山の生んだ作曲家、宮良長包曲という歌にもたくさん触れなじみました(“えんどうの花”よりもっともっといい歌がいくらでもあるのです)。また、小学校5、6年の時には学校の隣にあった琉米文化会館に小さなミュージッククラブというのが出来て、三つの歌大会を企画なさったとても素敵な先生がコーラス指導をして下さいました。
 戦後10年が経った中学校1年の終わり頃、宮良長包作曲集「南国の花」が出版されました。父にねだってねだってそれを手に入れました。次いで母にねだって、家にピアノはありませんが、短期間の約束でピアノ教室に通わせてもらいました。ひとりでいろいろな音譜が読めるようになりたいためです。けれど、家業の手伝いも忙しく、すぐにやめましたので、特別な効果はありませんでした。それでも音楽に対するあこがれはずっと続いていました。
 中学・高校時代、愛唱歌集というのを手に、仲良しの友人と一緒に歌いました。日本の歌だけでなく、ロシア民謡をはじめとする外国のいろいろな歌に出会いました。
 流行歌も時々歌いました。
 1956年、中二の夏休み、父と二人で那覇まで出たとき、通りがかりの国際大通りの劇場で美空ひばりが出演していました。「ひばりちゃん聞きたい」「20分ぐらいでいいか?」と二人分の木戸銭を出して超満員の二階の出入り口の扉を背に立ち、人の後ろから首だけ突っ込んでひばりさんの歌うのを見たのでした。あまりに人が多く、途中から入って途中で出たので“見た”という印象しか残っていませんが、とても明るく生きのいい、きれいな人でした。
 大学に入学すると、道路より少し引っ込んで正門、守衛室、左右に学部館、正面に本館などの風雅な趣の木造建築群が建っていて、その古い明治の洋館に囲まれるように高い木や低い植え込みや草花のあしらわれた芝生の前庭がありました。
 たいていの昼食時、その前庭の芝生に坐ってたくさんの人が声を揃えて歌うのです。構内後方の寮に住む一、二回生です。いつでも自由参加の「歌う会あしび」です。それらの木造の建築群は今は国の重要文化財となっていて(本館は記念館と名を替えました)、遠い背景にさみどり色の若草山が見えます。 “天の原ふりさけ見れば春日なる…”と、その昔詠われた三笠山・春日山に春日大社、正倉院、大仏殿、興福寺などの点在する奈良公園が身近にありました。
 声がきれいでアコーディオンの上手な上級生が居て、その人がアコーディオンで歌い出すと皆が一緒に歌いました。
 “おお 牧場はみどり 草の海…”“若者よ身体を鍛えておけ…”や「琵琶湖周航の歌」など当時の若人の愛唱歌が中心でした。
 今考えると、とてもロマンチックで贅沢な雰囲気の和やかな歌う会でした。20人前後、時には30人以上も坐っていました。
 良く歌う歌や、歌いたい歌などを拾って誰かがガリ版で歌集にして配ったりしていました。その小さな形の二、三冊を今でも持っております。
 また、大学構内には、一坪にも満たない個室のみが5、6室以上も連なった古風な木造の建物がありました。自由に使えるピアノ室でした。ピアノの上手な友人はそこでよく弾いていました。私は傍で聞くだけですが、時には少し触れたりして楽しみました。けれど、ひとりでその部屋に行く勇気はありませんでした。
 あの時、ピアノを習いに行く気持の余裕と金銭の余裕があったなら…ピアノでなくともせめてアコーディオンくらい手に入れられていたら…と、今更ながら自分の知恵のなさ、心のゆとりのなさを悔やみます。あの頃は、精神的には深い苦悩・迷妄の中に居たからです。
 それでも格安の蓄音機とレコード3、4枚を買ってきてモーツァルトなどをくり返し聴いていました。

 いちばん役に立ったのは、中学三年間の音楽の教科書です(これが私が作譜の時に頼ったテキストでもあります)。授業で触れられなかったたくさんの歌も教科書から学びながら歌いました。この教科書は中学・高校・大学、その後もずっと私の荷物の中にあり、時に開いたりしていました。
 こうして数多くの歌を耳の奥に仕込んだ私の耳の中から、大工のおじさんのように旋律が聴こえるようになったのだと思います。けれど、それは誰にでも同じように耳の中には旋律があり、唇には歌があるとずっと思い込んでいました。私の生活の中には、常に覚えなじんできたきれいな歌があふれていて、耳の中には好き勝手な旋律が湧いていました。
 ある時、と言っても60代になってのことですが、詩を書いたりする夫の八重(洋一郎)がこの歌詞に曲をつけて、と言ってきました。イタズラ半分に作って、さらに生まれて初めて譜まで書いてみたのです。「花の咲き島」です。それを八重が友人のAさんに送り、Aさんの手から音楽を専門に学んできたIさんの手に渡り、見知らぬIさんが“これ、ちょっといいから”と一曲のみのCDを製作して下さいました。その時の驚き、感動と言ったら!「え? これがいい? ならもうちょっと作れるかも?!」
 その言葉がさめないうちに、とばかり、間をおかずに次…、また次…、と歌のための詩がやってきました。本当に困りましたが、どこかに発表するわけでなし、どうせ素人のおあそび作曲、と自分の耳に耳を傾けて聴く、ということを時間をかけながら続けてきたというわけです。
 それがいくつか出来たところで、隣家の音楽好きの方が、ホームコンサートをしましょう、などと知り合いのプロの歌手を呼んで下さいました。その声の繊細な美しさと言ったら! 私の歌でもこんなに美しく聴こえるのだと、その声を何度も聴きたいために数曲をまとめたCDまで作ってしまったのです。その時のピアニストが野口幸太さん、私の心を奪って下さった歌手が河野あいさんです。
 素人のこわいもの知らずで、その前後にもいくつかの曲が出来たのをピアノの野口さんにお送りしました。作曲も編曲も、ピアノのソロリサイタルも、さらにオペラのコレペティトールをなさり、ご自身で企画公演もプロデュースなさる野口さんに。
 ピアノを弾けない私の旋律は、前奏曲も間奏曲も右手の演奏曲のみで、右手も左手もひとりですべて書いたのは、左手にサンシン、前奏の右手には太鼓のイメージをつけた“雨乞い”のみ。それ以外のほとんどの左手は野口さんです。私の譜がピアノ演奏された時、和音を使って美しく豊かに響くように工夫して下さったのも野口さんです(譜の中には一曲の編曲すべて野口さん、というものもあるのです――“ニライのうた”“降りつむ雪に”等――)。野口さんからは実にたくさんのお力をいただきました。そして、10年ほどの間に十数曲が譜となりました。
 その間、私のCDを聴いて下さった八重山音楽協会の浦添幸子先生が、郷里の人達にも紹介しましょう、と、あれよあれよという間もなく、大きな会場コンサートを実施して下さいました。思いも寄らないことでした。歌詞と同じに、曲にも八重山の澄みきった海や空や風や波の音を…という思いがありましたので、郷里でのコンサートはしあわせの一語に尽きました。
 これから少しずつ年齢が進んで老化に向かう今、目も耳も気力も体力も衰えを感じるようになり、ひとつの曲を譜に仕上げるのに限界を覚えるようになりました。その思いから、最後の作品のつもりで“スペクトル”をかなりの時間をかけて譜にしました。そして「南国の花」のように、誰方かが手にとって歌うよろこびを感じて下さることがあるかもしれないと作品集を思い付きました。(宮良長包先生は、私の父の小学一年生の時の担任であられます。呼ばれて沖縄師範の音楽担当になられたのです。)

 最後に、次の方々に謝意を申し述べたいと存じます。
 まず、私の旋律開眼をして下さった池原千佳子さん、ホームコンサートだけでなく、専門家のみの使うホールコンサートまで行なって下さった程野美和子さん、歌っていただく酔い心地を味わわせて下さった河野あいさん、私にとっては音楽大明神の野口幸太さん、そして、郷里八重山に私の旋律を響かせて下さった浦添幸子先生。
 心より、ありがとうございました。

 次いで、長年の私の心の慰めであり喜びであった娘・滝野原南生や息子・糸数龍之介、そしてわが伴侶にも。特に最初の“花の咲き島”の時から「この曲はいいものよ」と励まし後押ししてくれた娘の声がなかったら私の作曲はこう長々とは続きませんでした。私には作譜はおろか、音楽の系統的な知識はなかったのですから。在るのはただ自分の内部から湧いてくる、耳に響いてくる旋律だけでした。

 さらに、私とつながってきたたくさんの方達にも、心よりの謝意をお届けしたいと存じます。

 もうひとつ付け加えるなら、中学三年間の音楽の教科書と「南国の花」に。1950年代の紙質も粗い上に繰り返しめくってもうボロボロの古い四冊に学んで私の譜は作成されました。