吉田義昭 yoshida yoshiaki


 

●著者略歴

既刊詩集に
『ガリレオが笑った』(書肆山田、2003年、第十四回日本詩人クラブ新人賞受賞)、
『空にコペルニクス』(書肆山田、2004年)、
『北半球』(書肆山田、2007年)、
『海の透視図』(洪水企画 、2010年、第10回詩と創造賞受賞)
『空気の散歩』(洪水企画、2016年)
などがある。

 

●詩集『海の透視図』覚書より

 今、私の前に、昭和六十年四月一日発行の「長崎新聞」がある。その文化欄に「海からの声」が掲載されている、変色し、インクの滲んだ新聞だ。私は長崎半島で生まれたが、幼い頃だったので、半島で暮らした記憶がない。時々訪れた故郷の原風景と、叔父や叔母や従兄弟たちから聞いた話をモチーフにしてこの作品は生まれた。もし、被爆した叔父さんの死の知らせが届かなかったら、この詩集は生まれなかったであろう。この詩集の原型は既に三十年以上も前に完成していた。故郷と家族と海をテーマにした作品のうちの数編は新たに書き足した。四十年間をかけた詩集となった。

 家族と死に関するテーマの詩が多いが、二年前に、自分が病気で死にかけたこともあって、この詩集がまた甦ってきたのだと思う。しかし、ここからまた、新たなテーマで詩的な出発をしなければならないとは思う。

 これらの作品は、「長崎新聞」、「詩学」、「詩と思想」、「SPACE」、「鰐組」などに発表した。

 

 ●エッセイ集『歌の履歴書』あとがきより

昨年、仕事を辞め、また少なからず歌手活動を始めた今、何かの形で歌に関する私の想い出を書いておきたかった。私の好きな曲、私が歌った曲は私の友人のようなものである。その歌の解説や紹介もしてみたかった。そしてその歌にまつわる私の想い出も重ねて書いておきたかった。     
ひとつひとつのエッセイには私なりの物語を入れたつもりである。私にとって、いつまでも忘れられない想い出は不思議と歌にまつわるものが多かったのだ。しかし、なぜ、暗い想い出ばかりを忘れられずにいたのだろう。今、読み返してみると、私の人生がいかに歌によって支えられてきたか、その理由が分かった気がする。

 

●詩集『空気の散歩』あとがきより

この詩集は全て散文だけとした。物語性を重視し、音やリズムをあえて散文の中に閉じ込めてみようと思った。ここ数年、私は歌の詩を書き、また、ジャズを歌ってきた。歌の詩との違いを私の中で明確にしておきたかったためでもある。

詩篇は四つの章にわけた。IとIIIの詩篇はガリレオやその周辺の科学者たちを登場させ、科学史風な作品に仕上げた。私の専門である化学分野から、物質は空気、土、火、水の四つの粒子の組み合わせでできているというアリストテレスの粒子論を根底のテーマとした。ガリレオやその周辺の科学者たちの伝記的な事実をモチーフに使ったが、名前のない登場人物や台詞は全て虚構、私の想像上の作品である。

IIの詩篇は臨床心理学関係の作品を集めた。化学教諭として学校を退職後、やっと三回目の試験で精神保健福祉士に登録することができたが、それと同じ時期に妻が入院し、膵臓癌で昨年の五月に亡くなった。妻の死がこの詩集を作るきっかけとなった。しかし、妻が亡くなって半年後、今度は私が骨髄性の白血病という診断を受けた。長崎で被爆した叔父と同じ病名であったことも不思議な宿命を感じた。幸い、現代ではこの病気は薬でおさえることができるようである。これからは気力で頑張るしかない。
退職後の二年間、大学で心理学関係の講義を数多く受講し、また実習も経験し、多くの精神科医、臨床心理士の教えをうけた。その時に私が感じた問題をテーマとした創作である。今後も科学史の勉強とともに、精神保健学関係の勉強は続けていきたいと思っている。しかし私にはかなり荷の重い課題であるが。

IVの作品は故郷長崎をテーマとした作品としたが、残念ながら、私は幼い頃に長崎半島から離れてしまったので、半島での記憶はない。長崎を訪れる度に故郷への郷愁は強くなっていったように思う。これらは叔父さんから聞いた生の言葉が含まれている。私の原点となった作品たちである。特に叔父さんたちから聞いた被爆の話は、叔父さんたちが亡くなった後でも、いつも忘れることは出来なかった。